赤穂浪士(あこうろうし)

師走の候
今年の カレンダーも 一枚と なりました。
コロナ渦 といぅこともあり、師走の 雰囲気も いまいち ですが
スーパー などに 正月飾り や 鏡餅が 並ぶのを 目にすると
年の瀬を 感じざるを 得ませんね。

「シュウプロの よもやま話」
今日も、気の向くまま、よもやまに つづって いきたいと思います。
さて、今日の話題は・・・

この時季になると、恒例?
よく テレビなどでも 目にしますよね、‘赤穂浪士(あこうろうし)’

赤穂浪士47人が 本所の 吉良邸に 討ち入りし、主君の 仇討ちを 成し遂げたのが
1702年 (元禄15年) の 12月14日(新暦15日)と いわれています。

1701年 (元禄14年) 3月江戸城・松之廊下で 播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩
(あさのたくみのかみながのり)
が、幕府の 礼式を司る 高家筆頭の 吉良上野介義央
(きらこうずけのすけよしなか)
に 小刀で切りかかる といぅ事件が 起こりました。
浅野には、即日切腹、領地没収と いぅ 厳しい 処置がとられましたが
吉良には、一切の おとがめ がなく、これが 事件の 発端となりました。

家臣たちは、主君の仇を討つ為に 綿密な 計画を練り、翌年12月14日
寅の上刻 (新暦15日午前3時頃)、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の率いる
47人が 本所の 堀部安兵衛(ほりべやすべい)宅に集まり、そこから 吉良邸へ
討ち入った といわれています。
2時間程の 戦いの末、浪士側は、一人の 死者も出さずに 吉良の首を取る事が
出来ました。

当時の世論は、武士の本懐を遂げた、赤穂浪士たちに味方しましたが、幕府は
翌年 2月4日、一同切腹 といぅ 処置をとりました。
しかし、赤穂四十七士の 一人、寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は、討ち入りに
参加しましたが、泉岳寺に 引上げる途中で姿を消して、切腹を免れ、83歳まで
生きていたと されています。

この事件を 題材とした ‘忠臣蔵(ちゅうしんぐら)’ は、歌舞伎、演劇、ドラマ
映画などの 作品として 多く作られ、現在に 至まで 語り継がれています。
毎年 この時季になると、必ず、どこかしらで やってますよね。

 えんリフォーム‘ シュウプロ は、時どきの 出会いを 大切に!
出会えた ご縁を 大切にしたい。
そんな 気持ちで 日々、仕事に 当たって おります。

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